楽しい仕事とは好きなことか?〜仕事になる「好き」とならない「好き」がある

子どもの頃、わたしはヴァイオリニストになりたいと思っていました。

でも親も先生もみな、それに反対でした。

「好きなことは仕事にしない方が良い、仕事にしてしまうとただ好きではいられなくなるから」

反対理由を端的にまとめると、そんな感じでした。

 

 

 

1・楽しくて好きなことを仕事にできない理由〜なぜわたしはプロのヴァイオリニストになれなかったのか

まあ表面的には、親の「至極ごもっともな」反対を押し切れなかったからなのですが‥

どうもそれが真の理由ではないなと思うようになりました。

 

※実際はアルバイト程度にプロとして仕事をしていたこともありますが、本格的ではないのでここでは考えません。

 

今でもまずまず弾けます

 

1・楽しいこと、好きなことを仕事にできるための必要条件とは

わたしのヴァイオリンの先生ご自身が、オーケストラの団員だった頃はたいへんな苦労をされたそうです。

「音楽は美しいけれど、音楽をする人の世界はとても汚い」と言われたとか言われなかったとか、人づてにですが聞いたことがあります。

また、「本当に好きなことは趣味にしておくのが一番良い」と言われたことも何度もあります。

趣味ならば自分の好きな時に好きなだけできるのであり、その「好きなこと」の良い面ばかりを楽しむことができるからでしょう。

 

反面、もし音楽を仕事にしたとしたら、いろいろ我慢しなければならないことも多いでしょう。

好きな時に好きな曲だけを弾いているわけにはいきませんし、状況によってはオーケストラの席次などで一喜一憂することもあるでしょう。

同僚間での足の引っ張り合いや、既得権益のしがらみなどもきっとあるでしょうし、人間不信に陥ることだってあるかもしれません。

遂には「こんな苦しい世界を生み出す音楽なんて大嫌いだ!」ということになる可能性もあるでしょう。

それは特に音楽に限ったことではなく、どんな「好きなこと」にも共通するものだと思います。

 

それでも、その可能性があっても、その「好きなこと」をしたいかどうか。

言い換えれば、好きなことのプラス面のみを楽しむのではなく、マイナス面も併せて受け入れることができるかどうか

 

それが「好きなことを仕事に」できるための必要条件なのです。

 

 

2・「好きなことを社会に受け入れてもらうための面倒な努力」ができるかどうか

さて、「好きなことを仕事にする」のであれば、仕事とは社会的な活動であることから、

どうしてもその「好き」が社会に受け入れてもらえるように創意工夫を重ねていく必要があります。

正直、面倒なことです。

 

「これは絶対いいんだから!ねえ、わかるでしょ?」などと言っても、まずわかっては貰えない。

自分の「好き」は、みんなの「好き」であるとは限らない。

そこで、わからない「みんな」の方が間違っているんだと片付けることができるのであれば、

それは仕事にはならず、趣味にとどめるのが正解でしょう。

 

つまり、「自分がそれを好きであるということを社会に受け入れてもらえる努力」という面倒なことができるかどうか、

好きなことのマイナス面も一緒に受け入れる覚悟ができているかどうか、

それが仕事にできるかどうかの条件なのです。

 

 

わたし個人の感覚では、どうしてこんなに素晴らしいクラシック音楽の世界を大多数の人がわかってくれないのか、

とってもとっても不思議なのです。

率直に言ってしまうと、「みんなおかしいんじゃない?」と言いたいくらいです。

 

が、そう思ってしまうということは、わたしはそれを社会に示していくという「面倒なこと」を放棄しているからであり、

これこそがクラシック音楽演奏家としては大成できない理由なのです。

やはり趣味にしておくくらいがちょうど良いのです。

 

 

3・自分だけが楽しみ「自分のため」にしているうちは仕事にならない

さて、もうひとつ、別の視点から考えてみたいと思います。

それは「自分のため」か「好きなことのため」か。

 

別の言い方をすれば、自分のために好きなことを使うのか、

好きなことのために自分を使う=無にしていく、のか。

 

例えばヴァイオリンを弾くことで自分の感情を解放し癒しを得たい、それが目的なら、

わたしは自分のために好きなこと=ヴァイオリンを弾くこと、をしているのです。

しかし、ヴァイオリンの素晴らしさを多くの人に知って楽しんで癒されてもらいたい、それが目的なら、

ヴァイオリンの活躍のために自分を使っていくことになります。

 

前者は「エゴ」の自分を大切にしています。

後者は逆で、「エゴ」の自分をどんどん薄くしていくような感じです。

 

さて人間、何だかんだ言ってもこの世では「個体」としてのエゴを持っているのですから、エゴの自分を大切にすることも必要です。

だから、仕事にならない趣味も必要でしょう。

が、仕事とは社会奉仕に他なりません。

社会という観点から見れば、個体としての自分のエゴが満たされるかどうかなどは、決して重要なことではないのです。

 

わたしはヴァイオリンを弾く時にエゴが出るのです。少なくとも、熱心に弾いていた当時は出ました。

それは別に悪いことではありません。それで自分の普段抑えつけていた感情が解放され、癒されるのですから。

でも、反対した親や先生がそれを見抜いて言っていたかどうかはともかく、やっぱり仕事にしなくて良かったのです。

逆に当時のわたしがそれを仕事にしていたら、そのマイナス面も受け入れなければならないが故にそれは自分の癒しにはならず、

どこかで精神的バランスを崩していたかもしれません。

 

「自分のため」だけにしている限りは、仕事には向かない

(「自分のため」が転じて、「好きなことのため」「社会のため」になれば大丈夫です。)

 

 

2・楽しくて好きなことを仕事にできる理由〜なぜわたしはプロのクリスタルボウル奏者になれたのか

ヴァイオリニストとしてもピアニストとしても中途半端だったわたしですが、

水晶七環(クリスタルボウル)の演奏はプロとして続けています。

どこに違いがあるのでしょうか?

 

ヴァイオリンで超絶技巧など練習していたわたしからすれば拍子抜けするほど簡単なのですが、
だからこそ難しいところも‥

 

1・そもそも最初から「良いことばかり」とは思っていない

クリスタルボウルというものを知ったとき、まず初めに思ったのは、「なんか怪しげだ‥」でした。

その頃わたしは、いわゆる「スピリチュアル」的なものを斜に構えて見ていましたから、

「スピリチュアルなにおい」のぷんぷんするクリスタルボウルには正直なところ、抵抗感があったのです。

が、急に、後にわたしの先生となった奏者さんに見込まれたことにより、わたしは「騙されたと思って」この道に進むことになりました。

 

※参考記事

「好き」とはどういうことか?〜自覚できるものとできないものがあるらしい

https://otoka.jp/「好き」とはどういうことか?〜浅いものと深い/

 

始めてみれば、結構「好き」なところもありました。

何といっても演奏中は、なんだかとても自然な感じで気楽にいられることができるのです。

が、それは大して「好き〜!」と自覚できるほどのものでもなく、

せいぜい「決して嫌いではない」という程度のものだったのですが。

 

でも、だからからか、わたしはこの世界が「薔薇色」だなんてちっとも思わなかったのです。

むしろ「どうせ厄介なことが多いに決まっている」というくらい。

そもそも「怪しい」楽器だし、いかに怪しくないか周りに説明するだけでも大変だと思っていました。

だからプロになっても、順風満帆にスイスイ進むなんてちっとも思わなかった。

むしろ、「進んだらラッキーだな」くらいに思っていました。

 

それが却って良かったのかもしれません。

 

 

2・「面倒な努力」も「して当然」

良いことばかりではないと心得ているのですから、面倒なことや困難に突き当たっても、それを「当然のこと」として受け入れるのです。

 

お客様が来ない。当然だな‥

良さがわかってもらえない。まあそうだろうな‥

なかなか収入にならない。そんなことは想定済み‥

 

上手くいかないのが当然と思っているので、上手くいかなくても別に落ち込みません。

ただ、少しでも上手くいかせるためにはどうしたら良いか、それだけを考えるのです。

それは「面倒な努力」かもしれませんが、「して当然」だと受け入れています。

 

正直なところ、自分を癒し甘やかす材料には全くなりません。

が、わたしは水晶七環に「自分自身を癒すこと」は求めていないので、全く問題なしです。

 

クラシック音楽とは逆に、わたしは「みんなわからなくて当然」と考えています。

それは別に不思議でもおかしくもなく、当たり前のこと。

ただ、稀にいる「わかる人」「これが何らかの役に立てる人」には、水晶七環に出会って役立ててほしい。

水晶七環のためならば、楽したいとか甘やかされたいとかいう「自分都合」は極力薄くしていくことができる。

 

水晶七環のために自分を使ってほしい。

もっと言うならば、好きな水晶七環がより世の役に立てるものとなるために、エゴの自分の要求は捨てていく。

 

ここが大きな違いなのです。

 

3・「自分のため=好きなことのため=社会のため」にできれば、それは仕事になる

とは言え、決して自分を犠牲にしているのではありません。

頑張って嫌なことをしているわけではないのです。

 

やはりそれは、自分のためなのです。

が、表面的な「エゴの自分」のためではなく、もっと深いところにいる、自分の芯(真)に近い部分の「自分」のためです。

 

わたしは、人は深いところではみな繋がっていると確信しています。

表面の浅い部分は「エゴの自分」としてそれぞれ別個になっていて、それを保つために必要なのが、個体を保つための欲=エゴなのです。

食欲性欲睡眠欲などはまさにそうですが、個体としての存在を保つための欲は必要です。

しかしその深い部分では人は個体として完全に独立はしておらず、大元では一つになるでしょう。

 

一つというところまでは行かずとも、深いところに入っていけば、

人は意外と自分のみの快楽、幸せ、安全などを求めているわけではないのです。

簡単に言えば、「自分のため」と「他人のため」の差が少なくなってくるということ。

他人が喜ぶのを見ると自分も嬉しい、という感情はここから出てくるものです。

 

その「好きなこと」が、エゴを満足させるためではなく、エゴを薄くしてその奥を満たすためのものであるならば、

「自分のため=好きなことのため=社会のため」になるのです。

 

わたしのことを例にするならば、

表面意識ではさほど自覚はないものの、深いところでは水晶七環が好きなので、

その水晶七環が社会の役に立てればこれほど嬉しいことはありません。

そのためならば、多少の面倒なことやマイナスな出来事などあって当たり前で、何ということもないです。

自分を甘やかし癒すためにしているのではありませんから。

でもこれが実現していくことで嬉しくなるのは、やっぱり自分自身でしょう。

だからやっぱり、自分のためなのです。

 

 

3・まとめ〜「好きを仕事に」したいなら、それがどんな種類の「好き」なのかを考えてみる

「好き」といっても、それは2種類に分けられます。

浅い「好き」か、深い「好き」か。

 

浅い「好き」は自分の表面的なエゴを満たし、甘やかし、心地よくさせるためのものです。

それが悪いわけではありません。それも人生にとっては必要な、大切なことです。

 

しかし深い「好き」はむしろエゴを薄くしていくもので、表面的なエゴの自分にとっては、

時に辛く厳しく、居心地悪くなるようなものかもしれません。

もっともそのエゴが薄くなるので、これらはほとんど気になりませんが。

 

深い「好き」なら、それは仕事にするに適しています。

が、浅い「好き」だからといって、仕事にすることが絶望的なわけではありません。

深い「好き」に変わっていくこともあるからです。

 

ぜひ、深い「好き」を仕事にしてみてください。

人生楽しく、心は穏やかになります。

「好きを仕事に」はできると、わたしは結論づけています。

 

が、そこを明らかにせず、単に「好きを仕事に」と謳うことには「落とし穴」のようなものがあるでしょう。

その「好き」は仕事になる「好き」か、ならない「好き」か、

それをまず見極める必要があるのです。

 

 

ついでに言うならば、人生をより多彩に活発にしたければ、

この浅い「好き」と深い「好き」の両方を楽しむことでしょう。

エゴを満たして生きることと、エゴを捨てて生きること。

 

また歳を経ると変わるのかもしれませんが、今のわたしは、エゴも完全に捨てる必要はないと考えています。

誰もが悟りを開く必要はない。

 

でも一瞬でもエゴを捨てられる時があれば、人生はもっと楽になると思います。

 

 

※参考サイト・わたしはここで「好きを仕事に」するテクニックを学びました。

理想論ばかりではなくテクニックも必要し、テクニックを学ぶことで見えてくる理想もあります。

http://kasako.jp

 

 

※【1/20(土)午後】水晶七環演奏会〜贅沢な中国茶付きで極上のひととき

15時30分〜17時30分  自由が丘「スタジオカムシア」にて ご参加費・5000円

1/20水晶七環演奏会
 

 

※【12/3(日)】クリスタルボウル・ヨーガ

15時15分〜16時45分  自由が丘「スタジオカムシア」にて ご参加費・4000円

12/3クリスタルボウル・ヨーガ

 

※【10/14(土)】自由が丘癒しのフェスタ

10時〜18時  自由が丘「スタジオカムシア」にて

10/14(土)自由が丘癒しのフェスタ(クリスタルボウル・ヨーガ)