テレビは洗脳?観ることのメリットとデメリットを考えてみました

先週の自由が丘癒しのフェスタにも出展してくださった、占いコーチングの江グロリアさんのブログで、こんな記事を読みました。

「テレビは見てはいけない」!思考停止にならず、必ず自分の頭で考える重要性

 

個性的な風貌の江グロリアさん(右)と

 

 

「テレビは洗脳」説は、他でも何度か読んだり聞いたりことがあります。

確かに洗脳的なところもあるでしょうが、どの程度からを「洗脳」と定義するかにもよるでしょうし、ここでそれを論じるつもりはありません。

が、わたし個人はテレビは決して好きではなく、どちらかと言えば嫌いな方です。

 

多くの人にとっては娯楽であるはずのテレビが、どうしてわたしにとってはストレスになるのでしょうか。

それを通して、テレビを観ることのメリットとデメリットを考えてみました。

 

 

1・わたしがテレビは嫌いな理由5つ

1-1・テレビからの情報は一方的で、自分の頭で考える「間」がない

『テレビあんまり見すぎちゃダメだよ〜』という江グロリアさんのフェイスブック投稿に、わたしは思わずこうコメントしました。

『わたしもテレビは観ません。考えさせてくれる「間」がないのが不快に感じるのです。』

 

テレビ嫌いの理由の筆頭は、何といってもこれです。

次から次へと流されてくる情報は一方的で、「待てよ」と何か疑問に思っても、待ってはくれません。

考える間もなく、用意された結論へと導かれる。

 

テレビ番組の中には、上質な教養番組もあるでしょう。

実際わたしにとっても、話を聞いて「それは観たかったなあ」と思う番組は結構あります。

が、それでもやはり、その一方的な流れは好きになれません。

これが自分のペースで読める本だったらと、どうしても思ってしまうのです。

 

 

1-2・感動や共感の「押しつけがましさ」が嫌い

これはテレビに限らず、映画や芝居でも時に思うことがあります。

「ここは感動するところですよ!」「ねえその通りでしょう?」と言わんばかりに「誘導」されることが不快なのです。

例えばドラマのBGM、お笑い番組の観客の笑い声、バラエティ番組の強調されたテロップ(文字挿入)などです。

 

わたしが天邪鬼なのかもしれませんが、特に「感動を強要するいかにもなBGM」は大嫌いで、せっかくの感動がさあっと冷めてしまうことすらあります。

テレビドラマでも映画でもお芝居でも同じで、BGMはできれば抑え目にして、演技だけで感動させてほしいと思います。

映画はあまり観ない方ですが、この点ではやはり、ひと昔前のモノクロ映画時代の方が良かったのではないでしょうか。

 

逆に、音楽なら音楽だけで感動させてもらいたいのです。

聴いただけで涙するほどの心を揺さぶる名曲や名演奏もあるのですから。

つまり「感動させるもの」の重ね使いがくどく、押し付けがましく感じるのでしょう。

感動するかしないかはこっちに決めさせてくれ、押し付けないでほしい、と思います。

 

お笑い番組の笑い声も同じです。

「ここはみんな笑うところですよ」と教えてくれなくていいから、笑うかどうかなんて自分で決めたいと思います。

テロップも然り。

何が重要で覚えておくべきところかなんて、自分で考えて決めたいです。

 

(同じ理由で、わたしも時に使いますが、文字の太字表記の多用も好きではありません。

本当に素晴らしい文章ならばそんなものは使わずとも、十分印象に残り、感動もさせてくれるものでしょう。)

 

 

1-3・最近のテレビドラマは観るに耐えない‥ような気がしてしまう

これは完全なわたしの偏見だと、自覚はしています。

なぜならここ10年以上、テレビドラマというものは観ていないのですから。

 

が、そう思ってしまった発端は、15年ほど前に旅先のテレビで観てしまった、あるドラマでした。

確か夜8時か9時の放送だったので、その局肝いりのドラマだったのでしょう。

しかしそれがまあ、惨憺たるものだったのです。

まず演技が、厳しく言えば学芸会レヴェル!

 

主演はわたしも聞いたことがある名前の人だったので、たぶん当時の人気アイドルだったのでしょう。

が、お芝居は見たところ、まったくの素人でした。

あまりの演技の酷さに内容への興味は完全に失せ、早々に消してしまいました。

きっともっとましなドラマもあるのでしょうが、以来わたしのテレビドラマ嫌いは決定的なものになってしまったのでした‥

 

視聴者を小ばかにするのもいい加減にしてほしい、とすら思ったものです。

 

 

1-4・内容と関係なく突然入ってくる、品のないCMにうんざりする

民放はCM(コマーシャル)あってこそだということはわかります。

が、本編の内容と全く関係ないのに突然入ってくるCMには、それでも辟易してしまいます。

 

流れを断絶させ、雰囲気を台無しにする。

 

しかも中には、まるで品のないものもあります。

突飛な格好で印象にさえ残ればいいという感じで・・

・・これ以上は「毒舌」になりそうなので止めておきます(笑)

 

(蛇足ですが、わたしは何かのCMを観ると、むしろこれを買うのは止めておこうとさえ思います。)

 

 

1-5・自分の時間や思考や感情を「四角い画面」なんぞにコントロールされたくない

まとめると、こういうことです。

 

まず「自分の時間の使い方」をテレビに左右されたくないのです。

それはもちろん、「何時にどの番組が始まるからどうこうしなくては」という、一日のスケジュールのことでもあります。

が、それ以上に、「疑問に思ったらちょっと止まる」という自分のリズムを乱されたくないのです。

 

そして、思考や感情もそうです。

「これはこう考えるのが普通です」「こういうところでは笑う(泣く・怒る)ものです」という誘導が嫌いなのです。

生身の人間からそう言われるのはまあ良いのですが、なぜかあの「四角い画面」にそうされるのは嫌なのですね・・

 

わたしの感覚がちょっと特殊なのかもしれませんが、そんな理由で、わたしはどうしてもテレビは好きになれません。

 

 

と言いつつ、地元のローカルTV(自由が丘FMTV)では番組担当しています!

わたしにとってローカル局は、影響力のある大手の局とは感覚が違うのです。

 

 

2・テレビを観ないデメリット〜「コモンセンス(共通感覚)」が育たない

上のような理由で、わたしはもう15年以上もテレビなしの生活を続けているのですが、テレビを観ないことのデメリットと言えるものも確かにあると思っています。

それは、「コモンセンス(共通感覚)が育たない」ということです。

 

※「コモンセンス」は普通「常識」と訳されますが、ここではわたしの言語感覚で、「コモン=共通の・ある社会の構成員が共有している」「センス=感覚」と当てはめました。

広く人々が共通して持っている感覚、ということです。

 

 

例えばわたしの致命的弱点とでもいえるものは、クラシック以外の音楽を壊滅的なまでに知らないということです。

これはもちろん興味がないからなのですが、もしテレビを日常的に観ていれば、いつしか少しは覚えて興味を持ったかもしれません。

当然のことながらカラオケに行っても楽しめませんし、なにかの機会に皆で一緒に歌うこともできません。

 

そのような一般的「常識」はもとより、いわゆる「一般的日本人」の感覚もわからなくなってしまいます。

例えばよく芸能人の不倫問題が叩かれるようですが、あれもわたしにはよくわからない感覚です。

「不倫は絶対悪であり、非難されるべきものである」という「共通感覚・共通認識」がないからなのでしょう。

(良し悪しは当事者たちの問題であり、外から断定するものではないというのがわたしの個人感覚です。)

 

また、子どもの教育に関してもそうです。

「不登校は問題である」「受験は一大事であり、家族の協力が必要である」、このような「日本社会の共通感覚」はどうもいまいちわからないところがあります。

 

それが正しいか間違っているかはともかく、「現代日本の多くの人はそう考えるものだ」という感覚が、わたしの中では薄いのでしょう。

それはもしかしたら、わたしがテレビを観ないことで、ある意味「世間様との間に壁を作っている」からなのかもしれません。

 

平たく言えば、「みんなおんなじ」という感覚が薄いのです。

テレビを観ないことは、その良し悪しはともかく、個人の感覚を大切にすることで多少個人主義的になるのかもしれません。

 

 

3・テレビを観ないメリット〜自分の感覚を大切にするようになり、時間の余裕もできる

上にあげたデメリットは、裏を返せば、そのままメリットにもなります。

つまり、「社会の共通感覚」よりも「自分個人の感覚」に敏感になり、それが育つということです。

 

もちろん例外もあるので一概には言えませんが、大まかな傾向としては、テレビをよく観る人ほど「なんとなくみんなと同じ」ような考え方や行動をするような気がします。

世間が良いというものは良い、悪いというものは悪い。

が、「あなた個人はどう思うのですか?」という質問には答えられない、というより、そもそもそんな質問があることを想定していない。

 

おそらくこの日本の過半数の人々に大きな影響を与えているテレビというものから距離を置いてしまうと、その、「わたしはどう感じ、どう思うのか」という感覚と向き合わざるを得なくなるのでしょう。

テレビを観ない人、もしくは、テレビを「意識的に観察という視点から観ている人」ほど、その人自身の個人感覚を大切にしているように思います。

 

そしてもうひとつ。

 

実はわたし自身、たまにはテレビも観た方が良いのではと思うことがあります。

それはともすると、本当に「共通感覚」がわからなくなってくるからなのです。

周りの話に付いていけないし、同じことで感動したり、しんから共感することもできない。

 

が、テレビを観るとなると、日常生活の中で少なくとも30分から1時間以上は、それに費やすことになるでしょう。

特に「なんとなく」ではなく「観察の視点から意識的に」観るとすれば、何かをしながら観るわけにもいきませんし。

 

ケチなようですが、その時間が勿体ないのです。

その分、本が読みたい。ゆっくりとお茶を楽しみたい。

あるいは、子ども達と喋ったり遊んだりしたい。

わたしはもうテレビ観ることを止めてかなり経つので忘れてしまいましたが、最近止めた人の話によると、暇な時間が多くなってびっくりしたそうです。

どれほど「なんとなく」時間をテレビの前て潰していたか、止めてからわかったと。

 

テレビよりも読書の時間を確保したい

 

 

わたしは「日本人の共通感覚」「日本社会の常識」の情報は、主にインターネットでざっと入れるようにしています。

もちろんインターネット情報にも偏りはあるでしょう。が、テレビにだって実は偏りがあるのです。

 

偏りを「なんとなく」流れてくる映像効果で、なんだか絶対的真理のように錯覚させてしまう。

テレビ洗脳説はおそらくこのことを指しているのだと思いますが、そのことに対してわたしは特に警戒心が強いのかもしれません。

 

 

4・みんなが破滅に向かう時に一人でも逆方向へ行けるか〜個人感覚を大切にするためにもテレビは程々がいいと思う

テレビを観ることのメリットもデメリットも表裏で、実は同じことをどう捉えるかなのです。

つまり、「共通感覚が育ちにくく、そのぶん個人の感覚を大切にするようになる」ということ。

 

これは本当はどちらが良い悪いではなく、バランスでしょう。

世の中、完全に個人主義でバラバラでは、やはりいろいろと難航してうまくいかないかもしれません。

「和を以て貴しとする」という日本人の特徴は、このバランスが多少「共通感覚」よりになっているところにあるのでしょう。

 

が、明治生まれで戦争を体験したわたしの父は、常々こう言っていました。

「『みんな同じ』が危険なんだ。みんなと同じだったら、本当にそうなのかどうか、ちょっと疑ってみた方がいい。」

おそらく戦争当時、その「みんな同じ」が同じ破滅への方向を向いていたことを感じていたのでしょう。

 

当時テレビは普及していなかった筈ですから、この時代の「みんな同じ」は、別のところにその源泉があったのでしょう。

テレビだけに罪を被せることはできません。

が、テレビはその感覚を助長させるような気がします。

 

父はこうも言っていました。

「みんなが破滅へと一斉に向かっている時に、一人でも異を唱えられるか。逆方向へと向かえるか。」

 

 

属している社会の共通感覚も大切です。

大切ですが、集団は時に怖ろしい力を持って暴走することがあります。

個人ではおそらく誰も望んでいないのに、国家集団になるとしてしまう戦争は、その最たる例でしょう。

そんな時に、個人感覚で「おかしい」と思えるかどうか。

 

そのためにも個人の感覚は大切にして、ある程度はしっかり残しておくことが大切だとわたしは考えています。

そして見たところ、いまの日本社会はかなり「共通感覚重視」に寄っているのではないでしょうか。

 

 

テレビを観ること自体は、別に悪いことでもなんでもありません。

むしろ、ちょっとは観た方が良いかもしれません。

が、「なんとなく」ではなく、時には「じぶん」に立ち止まって考えてみましょう。

そのためにも「テレビはほどほど」が、「わたしの個人感覚では」、お勧めです。

 

 

近日開催予定のイベント

 

※【11/20(月)昼】横浜中山癒しの昼活

11時〜14時  横浜中山「753Cafe(古民家カフェ)」にて ご参加費・2000円(ランチ込)

11/20中山昼活

 

※【2017年12/3(日)午後】クリスタルボウル・ヨーガ

15時15分〜16時45分  自由が丘「スタジオカムシア」にて ご参加費・4000円

12/3クリスタルボウル・ヨーガ

 

※【2018年1/20(土)午前】水晶七環演奏会〜贅沢な中国茶付きで極上のひととき

午前10時〜12時  自由が丘「スタジオカムシア」にて ご参加費・5000円

1/20水晶七環演奏会