想像力とは「わからない」ことを想像できる力〜学問や芸術は何のためにあるのか

子どもの頃、「自分がされて嫌なことを他人にしてはならない」と教わりました。

が、大人になって、それは正しい場合もありますが、間違っていることの方がはるかに多いと思うようになりました。

 

現実は、

「自分がされて嫌なことをされても平気な他人もいれば、その逆もあり」

だったのです。

では他人と円満に付き合うためには、わたしたちは何をどう心がければ良いのでしょうか?

 

 

1・腰椎の特徴からわかる感受性の傾向は、驚くほど異なる

最初にわたしがそれを実感したのは、

野口整体の道場に通い始めて「体癖」という概念を知ったときでした。

 

※wikipedia「体癖」

https://ja.wikipedia.org/wiki/体癖

 

※参考記事

自分の「当たり前」は他人の「当たり前」ではない〜体癖から知る自分の「偏り」

https://otoka.jp/自分の「当たり前」は他人の「当たり前」ではな/

 

 

wikipediaや上の記事にもあるように、10種類(12種類)の腰椎の特徴によって、

「個人の生理的・心理的感受性(体質、体型、性格、行動規範、価値観など)」(wikipediaより)は

驚くほど差があるのです。

 

 

 

もしあなたが、頭脳型で大義名分を重視する上下傾向が強かったとすれば、

座る時は誰が上座になるべきか必ず考えるでしょう。

それを破る人がいれば無礼に感じて腹を立てたり軽蔑したりするでしょうし、

もちろんあなた自身は決してそんなことはしないでしょう。

(いわゆる「マナーにうるさい人」というのは、この傾向を持っていることが多いようです。)

 

が、合理性を重視する前後型の人ならば、たとえ礼儀作法に全く適っていなかったにせよ、

それが一番早くスムースに着席できるなら、そんなことなどどうでも良いかもしれません。

 

また、形式よりも本質が大切な開閉型の人なら、たとえ礼儀作法に完璧に適っていたとしても、

その奥に相手の真心がなく形だけだと判断したなら、却って反感を抱くかもしれません。

 

 

以上は敢えて簡略化させた説明で、現実的ではないかもしれません。

本当は人の体癖も複合体癖など無数にあり、簡単に10ないし12タイプにすっきりと分けて理解できるものではなく、

また体癖以外にも個人の経験や文化背景などの要因もあるのですから。

このように簡単に言い切ることはできないでしょう。

 

しかし、それでもこれは言えると思います。

人の感受性というものは本当に個人個人で大きく違っているもので、

自分なら腹が立つから相手もそうに違いないとか、自分は平気だから相手も気にしないだろうとか、

そうは言えないことの方が多いということです。

 

 

2・他人のことが「わかる」というのは、大抵はただの錯覚に過ぎない

それなのに、生まれながらにそうだからなのか、成長過程でそう教えられるからなのかはわかりませんが、

わたしたちは他人も自分と同じように喜び、怒り、哀しみ、楽しむだろうと

つい思ってしまうものです。

 

そしてその期待が明確に裏切られた時、「信じられない」「変わり者だ」などと言って、

相手を自分の世界から排除しようとしてしまわないでしょうか。

 

しかし、むしろ相手は「信じられない」「変わり者」という方が普通なのです。

自分と同じ感受性の方が奇跡だと言ってもよいくらい。

 

相手の感じ方・考え方が本当に「わかる」ような気がするのは錯覚のようなものであり、

「わからない」のが当然なのです。

 

同じように、自分のことも相手には「わからない」方が普通です。

これは親子夫婦であっても同じです。

わかり合えているとすれば、それは共同生活を続ける上での工夫が奇跡的に上手くいっているということで、

親子といえども「先天的にわかり合える・わかり合うことが容易である」ということはないのです。

 

 

3・自分と他人は同じだと錯覚するからこそ、差別や排除の思想は生まれる

ちょっと話が逸れますが、最近わたしが気になる流行り言葉があります。

それは、他人の行動や発言を指して言う「信じられない」です。

 

まあ確かに、「常軌を逸した」行動や発言もあるでしょう。

例えば犯罪になるようなこと、これはもちろん論外です。

しかしそこまでではないことを簡単にそう言って片付けることには、わたしはある種の怖れを感じるのです。

 

 

例えば先の例で言うならば、

「新入りなのに上座につくなんて信じられない!」という発言がそれに当たります。

もちろん「礼儀作法」という物差しのみで測るなら、それは許しがたい非常識なことでしょう。

が、その新入りさんはただ知らなかっただけかもしれませんが、もしかしたら、

ちょっとお手洗いに立つにも不便な奥の上座に年配の先輩を座らせるより、自分が座った方が合理的だと思い、

むしろ気配りをした結果なのかもしれないのです。

 

※このような「無礼」な行為を是としたいわけではないですが、

必ずしもその人の悪意によるものではないと述べたかったのです。

 

 

「わたしはそのような行為は良くないと思う」「合理性よりも礼儀作法を重視する方が良いとわたしは思う」、

などと発言するのは自由です。

が、自分の価値観に合わない行為を全て「信じられない」という言葉で片付けるのはいかがなものでしょうか?

それは、「自分と同じ感受性の人間でなければ存在を許さない」と言っているようなものです。

 

差別とか他者排除というものはまさに、このような硬直した考え方から生まれてくるように思います。

「自分と他人は同じであるはずだ」と思うからこそ、「同じでない他人」が許せなくなってしまうのです。

 

 

4・では「わかり得ない他人」にどう接すれば良いのか〜それが「想像力」である

わたしはむしろ、

「自分には他人のことはわからない」「他人には自分のことはわからない」、

と認めてしまった方が良いと思っています。

それはまず間違いなく、「あなたがそうだと思っている以上に」でしょう。

 

だったらもう諦めて、好き勝手にすれば良いでしょうか?

いいえ、それも違います。

 

「わからない」ことを補ってくれるものがあるからです。

そう、それこそが「想像力」なのではないでしょうか。

 

 

5・「わからない」からこそ「想像力」を鍛える必要がある

「想像力」とは何のことはない、

「自分が想定できること以外の何かがあるのではないか」

「自分の知らない世界や考え方があるのではないか」、と思いを馳せることができる力です。

 

例えば先の席次の例で言うならば、

なにも「合理的に席を決める」という思考法を「理解」することはないのです。

ただ、「わたしの考える礼儀作法以外にも、何か決め手があるのかもしれない」と思えるかどうか、です。

 

想像力は理解力ではありません。

「理解できないこともあるかもしれない」と思えるかどうか。

理解できないことを理解できないまま、自分の世界に受け入れられるかどうか。

 

一旦受け入れた上でそれを採用するしないは、自分の裁量次第です。

が、受け入れもせず「信じられない」と排除するのは、自分の狭量さと想像力の欠如を示すものです。

 

 

6・想像力を高めるもの、それが学問や芸術である

ではどうやって、その大切な想像力を高めていくのでしょうか。

そのためにあるのが、学問そして芸術だとわたしは思います。

 

学問というものは、一見、何かを「知る」ためのもののように思えます。

しかし「一を知れば十を知る」とも言いますが、むしろ、

「一を知れば十『知らないこと』があったと知る」ような気さえします。

 

往往にしてしっかり学のある人間ほど、自分が「知らない」ということを知っているものです。

むしろ無学な人間ほど、「自分は知っている」と錯覚してはいないでしょうか。

 

学べば学ぶほど、「自分は知らない」ことを知り、

「知らない」ことは想像力で補うしかないと悟るものです。

学問とは本来、決して他者より知力で抜きん出ることを目的とするものではなく、

むしろ「自分は他の人々と同じように知らない」ことを自覚するためのものではないでしょうか。

 

ここでいう学問とはもちろん、学校の「お勉強」ではありません。

「真理」というものがあるとすればですが、それに少しでも近づこうとすることです。

それを論理の面から試みるのが学問とすれば、論理ではなく感性から近づこうとするのが芸術。

わたしはそのように考えています。

 

だから人間には、少なくとも学問と芸術のどちらか一方は必要なのではないかとわたしは思うのです。

 

 

7・言葉の乱れは世の乱れ、芸術の廃れは精神の廃れ?

ところが現代は、他者排除の風潮が強くなってきてはいないでしょうか?

 

これはわたしが個人的に感じていることであり、異論もあるでしょうが、

どうも現代は学問と芸術が廃れてきているような気がするのです。

古典の名作よりも読みやすいハウツー本が売れ、

鍛錬が欠かせない芸術よりはお手軽な「ヒーリング」が流行っている風潮からしても。

 

それが良くないと言うのではありません。

わたしの仕事、水晶七環(クリスタルボウル)もまさに「芸術」というよりは「ヒーリング」寄りであり、

ピアノやヴァイオリン、または琴や琵琶などのように幼少期からの鍛錬など必要とはしないものですから。

そんなものも有用ですし、もちろんあって良い素晴らしいものなのです。

 

が、そればかりではどうもいけないような気がするのです。

ハウツー本もヒーリングも、お手軽なものもたくさんあって良いけれど、

一方で古典の名作や深みのある芸術もしっかりと継いで育てていく必要があるのではと思うのです。

 

わたし自身もそうですが、現代人の言葉は嘆かわしいほど貧しくなりました。

明治大正期の文豪の作品を紐解けば、その豊かな表現に驚き感動するでしょう。

また、ここは多分にわたしの個人的好みが入っているのかもしれませんが、

音楽にしろ絵画にしろ、現代ものはどうも深みが今一つのような気がします。

それに連れて世の中も単一的に、「異分子」排除の方へと動いてきてはいないでしょうか?

 

単にわたしの錯覚に過ぎないのであれば嬉しいのですが。

 

この夏はドイツ文学(と物理学)の世界に浸ることにしました。

ゲーテもマンも学生以来です。

 

 

7・まとめ〜「知らない」ことを知り、想像力を高めるために

人間は一生学ぶことができます。

「あの世」へ持っていけるものがあるとすれば、それはお金でも財宝でもなく、

ただ経験と教養だけではないでしょうか。

 

学ばないのはもったいないと思うのです。

学べば学ぶほど、「知らない」ことの山に圧倒されるように感じるかもしれません。

しかしそれこそが想像力を高め、理解できない他人を自分の世界へ入れることができるようになることなのです。

 

簡単お手軽なものも、いつもは良いでしょう。

しかしたまには、簡単でもないお手軽でもない、

質の高い「学問」や「芸術」に触れてみませんか?

 

・・というわたしの発言自体が、わたしの「体癖」という偏りから出ているものに過ぎないのでしょうが。

 

 

※【2018年1/20(土)午前】水晶七環演奏会〜贅沢な中国茶付きで極上のひととき

午前10時〜12時  自由が丘「スタジオカムシア」にて ご参加費・5000円

1/20水晶七環演奏会
 

 

※【2018年2/4(日)午後】クリスタルボウル・ヨーガ

15時15分〜16時45分  自由が丘「スタジオカムシア」にて ご参加費・4000円

2/4クリスタルボウル・ヨーガ

 

※【10/14(土)】自由が丘癒しのフェスタ

10時〜18時  自由が丘「スタジオカムシア」にて

10/14(土)自由が丘癒しのフェスタ(クリスタルボウル・ヨーガ)