縄張りだのしがらみだのもうたくさん!「風通しの良い繋がり」への挑戦
誰々さんは誰々さんの紹介だから、門下生だから、古株だから、どうのこうの‥
そんなしがらみ、お好きですか?
まあそれで人間関係を(当面の間は)余分に波風立てずに済むこともあるので、一概に否定はしません。
が、わたしはそろそろ、そんな「縄張り意識」に飽きてきました。
もくじ
1・以前の実体験から〜表立った競争を避けても却って水面下での争いを生む
1-1・疑問を持ったある講座の門下生による担当制度と、その結末
以前通っていたある講座の先生(以下、区別するために「大先生」とします)が、試みとして、
大先生の個人向け講座の一部を、大先生が認定した門下生に任せようとされたことがありました。
わたしはそれを素晴らしい挑戦だと思い、心踊ったものです。
ようやく大先生も、本腰を入れて後進のプロ講師を育てる気になられたのだと。
最初わたしは、大先生が全ての個人向け講座の一部を、何人かの門下生に分けて担当させるのかと思いました。
受講希望者に選ばせるのか、大先生がその裁量で門下生の能力に応じて分けるのか、はたまた「対等」に順番に担当させるのか、それはわかりませんでしたが。
しかし蓋を開けてみれば、その仕組みは
「ある門下生が紹介した受講希望者が、その希望者が承諾した場合のみ、紹介した門下生が講座の一部を担当する」
というものでした。
わたしは秘かに落胆しながらも、この世界はそういうものなんだと自分を納得させて、それをはっきりと大先生に言うことは控えました。
(後にやはり伝えれば良かったと後悔したものです。)
案の定その仕組みは上手く機能せず、しばらくすると立ち消えになりました。
1-2・なぜそれは機能しなかったのか
真の実力はさておき、実績なら圧倒的に大先生が勝ります。
普通に考えるならどうしたって、最初からその大先生に講座を受けた方が良いに決まっています。
それでも受講希望者が「知り合い」の門下生講師に講座を受けようと思うのは、本当にその講師にその人ならではの価値を感じているか、
そうでなければ、友達だからという「情」「しがらみ」でしょう。
では本当に「その人ならではの価値」が感じられる人になれば良いと言われるかもしれませんが、それは理想論です。
実際、実績抜きでそこまで新人の門下生講師を評価する人は、希少なのではないでしょうか。
またそう思うが故に、こちらも受講希望者に自分が一部担当できないかと誘うことには、遠慮がちになってしまうのです。
そしてまた、それは「紹介した門下生講師」に限られるのです。
つまり、紹介してくれた講師以外の講師が良いと思ってもその人からは受けられず、紹介講師か大先生しか選べないのです。
このような仕組みでは、ほとんどの人がどうしたって、最初から大先生を選ぶのではないでしょうか。
実際は、新受講生が選んでくれた門下生講師もいました。
しかし一方で、望んでいたかどうかは別にしても、結果として選ばれなかった門下生講師もいたのです。
また驚いたことに、まだ一門下生講師だったわたしに、講座の一部だけではなく最後まで習いたいと言ってくれた新受講生さんもいました。
さて。
おそらく大先生は、門下生講師間に妙な競争意識を起こさないためにこのような形を取られたのではないかと、わたしは推察しているのですが、
現実にはそれは、裏にやはり門下生間の「差」を生み出し、この頃からここの門下生同士の雰囲気は微妙な感じになってきたように感じました。
まとめると、機能しなかった理由は
1・「情」「しがらみ」を当てにした中途半端な制度だった
2・曖昧にすることで却って門下生講師同士の競争意識がマイナスに働いた
だったと思います。
1-3・「情」や「しがらみ」を大切にすることで、本当に余分な競争を避けることができるのか
例えば「甲さんは乙さんの紹介だから、乙さんのお客様であり、教わるなら乙さんから」というような「しがらみ」は、
一見、乙さんと乙さん以外の同門生や同業者との「お客様(受講生)争奪戦」を回避する良き方法に思えるかもしれません。
そして実際、世の中にはそれで避けられている比較競争もあるかと思います。
「誰々の紹介だから」という理由をつけてしまえば、
乙さんと同業の丙さんや丁さんの中で、誰の技術や教え方が優れているのかという、
ある意味「一番見たくない、気づきたくないこと」から逃れることができます。
が、それは「見ないこと、気づかないこと」にしているだけで、本質的な競争回避にはなっていないのです。
「ないこと」にしている裏ではやはり、誰も口にはしないものの、
「実は誰かが抜け駆けしているのではないか」というある種の疑心暗鬼を生じ、
表面的には何事もなく仲が良いようで、実は裏には不平不満が溜まってきて、いつ爆発して表面化しないかとも限らないのです。
(前出のわたしの経験でも、やはり後にその不満は表面化しました。)
結局争いを避けることができないのならば、いっそ初めからあっけらかんと、
全てオープンにしてしまったらどうなのでしょうか?
2・逆に実力や人間性など、全てを白日の下に晒してしまったらどうなるのか
2-1・「自由が丘クリスタルボウル倶楽部」は、過去の実体験の反対への挑戦
わたしが以前属していた、その「大先生」の門下では、大先生を特別な存在とすることで、
他の門下生は横並びで等しく一緒だという前提があるからこそ和が保たれていたように感じました。
だから少しでも「横並び」から抜き出る気配があれば、表面的には仲が良いものの、そっと陰で足を引っ張られるようなことがあったのです。
まあ、それが居心地良い人たちもいますし、それはそれで良いのですが、わたしはいい加減うんざりしてしまったのです。
そして時は流れ、いまわたしはどの分野でも完全独立して、どの先生の「門下」でもなくなっています。
そして「自由が丘クリスタルボウル倶楽部」という場を作ったことで、もう誰かに属する形ではなく、
自分が主体となって新しいコミュニティを作っていくことになりました。
この新しいコミュニティでは、「誰々は何々だから云々」という「しがらみ」を一切考慮せず、
各クリスタルボウル奏者の実力も実績も人柄も、できるだけ包み隠さず明示してお客様に選んでいただこうということに、挑戦しています。
2-2・「自由が丘クリスタルボウル倶楽部」の自由な在り方
ここでは一応、わたしが代表になっています。
が、わたしが一番偉くて特別だなどという雰囲気は、一切作る気はありません。
最初このコミュニティは、わたしと同じ先生から学んだ同門のクリスタルボウル奏者3人が中心となって作りました。
しかしわたしはここの奏者を同門生限定にするつもりはなく、他のところで学ばれた奏者さんも大歓迎です。
ただし演奏スタイルは問いませんが、ある一定以上の演奏レヴェルの奏者さん限定です。
その後メンバーは入れ替わり、今はわたしが教えた生徒さんと、そして望み通り、
わたしとは全く違う演奏スタイルの、違う先生から学ばれた奏者さんが中心になっています。
あまりに違うので、どちらが優れているか比べることなど、ただ「ナンセンス」としか言えません。
聴いてくださる方の好みと、その時の状態によるでしょう。
が、わたしの生徒さんたちは、わたしに比べると「優れていない」のではないでしょうか?
この質問の答えは、「そうであってそうではない」です。
一応わたしは「先生」ですし、まだ教えてもいますから、「総合力」で言うならやっぱりわたしが上でしょう。
そうでなければ教えることなど、詐欺に近いものでしょうから。
しかしどう個性を抑えても滲み出てしまう、その人にしか出せない「本当の個性」というものがあり、
それは単純に、どちらが「優れて」いるかなどと比べられるものではありません。
人としての存在価値は誰でも等しいように、どちらも等しく優れているのです。
ただどちらが、聴いてくださる方にとって合うか、だけ。
言い換えれば、総合力ではたとえ劣っていたとしても、ある点では生徒の方が先生より優れている、
それは十分にあり得ることなのです。
そして、その「ある点」こそが自分にとって必要な人がいたならば、その人にとって選択すべきは「総合力」の高い先生よりも、
その「ある点」がより優れている生徒の演奏の方なのです。
以上の理由から、わたしはある一定条件を満たした生徒なら、十分に先生と同じ舞台に立って対等にお客様に選んでいただくことができると考えています。
そして同じ舞台に立ったならば、もうその関係はそこでは完全に対等なのです。
生徒が先生を差し置いて選ばれようが、新人が代表よりも抜き出て活動しようが、恨みっこなし。
それが「自由が丘クリスタルボウル倶楽部」の奏者たちです。
同門ではないクリスタルボウル奏者・月丘泉さん(右)と
※月丘泉さんホームページ
http://itsukioka888.wixsite.com/i-tsukioka888
2-3・どうしたって比較競争が避けられないのなら、せめて堂々としようではないか
とはいえ、クリスタルボウル奏者だって聖人ならぬ生身の人間です。
正直なところ「代表」で「先生」のわたしが、新人さんや生徒の方が人気が出るのを見たら、やはり悔しい思いをするのかもしれません。
が、その悔しさを避けようと、代表者や先生の「特権」や「権利」にしがみついていたところでやはり、
(これがなかったならばわたしは「負けて」いるかもしれない)という不安や焦りをぬぐい去ることはできないでしょう。
それは他のメンバーにとっても同じだと思います。
「代表」や「先生」が偉いというヒエラルキーや、
はたまた「甲さんは乙さんの知り合いだから、乙さんの演奏会に行くのが筋」というようなしがらみなど、
実力以外のものにその理由を被せても、その不安や焦りが避けられないのなら、
いっそ開き直って「実力」をオープンにした方がいいのではないでしょうか。
ところで話が飛ぶようですが、日本の多くの学校では学業の成績は「語るまじきもの」としてひた隠しにしますが、
運動会の徒競走やリレーなど学業以外の分野では、全くもって平然と競争させているように感じます。
しかし子どもたちに劣等感を抱かせやすいのは、むしろ表向きは競争を許されない学業の分野ではないでしょうか。
隠すからこそみんな却って気になって、いろいろ推測憶測して、むしろ余分な競争意識をかき立てられているようにも見えるのです。
このように隠しても消せないのなら、隠さなくても同じではないでしょうか。
いえ、問題は「隠さない」ことではなく、「隠されずにそれを見た時のわたしたちの捉え方」にあるのです。
ある分野で誰が自分より上手か、あるいは下手かを知ってしまった時、それに自分がどう反応するか。
端的に言えば、それを即自分の存在価値に結びつけて舞い上がったり落ち込んだり、するかしないか。
あることの上手い下手と自分の存在価値を、ちゃんと切り離して考えられるか。
その上でその事実を、しっかりと認め受け入れることができるかどうか。
大人になってもよくある「幼稚な競争」の問題は、競争自体のあることではなく、
わたしたち一人一人がそれに過剰に反応してしまうことにあるのです。
3・「お客様目線」で考える〜お客様へのメリットなしに業界の発展はあり得ない
3-1・誰のためのコミュニティなのか
さて、視点を転じてクリスタルボウルを演奏する側からではなく、
クリスタルボウルを聴いてくださるお客様の方から見てみたいと思います。
聴き手としては、甲奏者の知り合いだから甲さんの演奏会に行くのが筋だとか、
乙先生に紹介してもらったから習う時は乙先生からにすべきだとか、
そんな「しがらみ」はあった方が良いでしょうか?
もちろん、ない方が良いに決まっています。
その時その時の状態や気分によって聴きたい奏者の演奏やヒーリングを選んだり、
誰かの伝手だからというような理由は抜きにして、単純に自分に合った先生に教えられたりする方が良いでしょう。
言い換えれば、サービス提供者が表面的な笑顔で「仲良しこよし」でいたいがためにコミュニティを作っているのか、
お客様に選ぶ機会を提供してより楽しんでいただけるために切磋琢磨できるコミュニティを作っているのか。
自分たちのためか
お客様のためか
3-2・お客様に喜ばれ支持されてこそ、その業界の発展はある
もうひとつわたしが提案したいのは、「その業界全体にとってプラスになるか」という視点を持つことです。
クリスタルボウル界全体が活性化するのは、奏者同士が牽制し合って比較されることを避けているときか、
それとも奏者同士が交流し協力し合い、比べられることも辞さない覚悟を決めたときか。
自分のお客様を取られたくない、同業者とは比べられたくない、と「縄張り」を守ることに汲々としていては、業界全体の発展は望めません。
スケールが小さい、小さすぎるのです。
それではいつか、その分野は衰退してしまうでしょう。
ではどうすれば、その業界が発展していくのでしょうか。
有力なスポンサーを付けることとか、ブームを「仕掛ける」こととか、覇道的な手もあるでしょうが、
王道はただ、「お客様に喜ばれ支持され、更にと望まれること」のみではないでしょうか。
望まれないものは、どんなに良いものであろうと、衰退していかざるを得ないのですから。
だから自分の、あるいは仲間たちのことはもちろん大切ですが、
それ以上にお客様のメリットを常に考え、大事にすることです。
「自由が丘クリスタルボウル倶楽部」は、それを優先的に考えられる質の高いクリスタルボウル奏者の集まる「場」として発展させていきます。
わたしのクリスタルボウル教室から初めてプロ奏者になったMaie(マイア)さん
※ブログ「Maie(マイア)の音薬」
http://ameblo.jp/mie-mie-maie/
4・まとめ〜「自由が丘クリスタルボウル倶楽部」は新しいコミュニティのモデルでもある
「自由が丘クリスタルボウル倶楽部」はわたしにとって、単なるクリスタルボウル奏者の集まりを超えた目的のある、大きな挑戦です。
それは、「新しいコミュニティの形の提案」ということ。
ここではありとあらゆる余分な「しがらみ」や「上下関係」を排し、
お客様に気軽に選んでいただける、新しい「公平」な場となることを目指しています。
今までの「公平」はとかく、「結果平等」でした。
皆が同じ結果を出せるように根回し調整すること、それが「公平」だったのです。
新しい「公平」は、「機会平等」です。
機会は等しく与えられるけれども、どんな結果が出るかはその人それぞれ。
そしてどんな結果が出ようとも受け入れること。
「お客様が多い=偉い、価値がある」ということではありません。
そんなことと人としての存在価値は無関係。
それをわかっている上質なクリスタルボウル奏者のコミュニティ、
それが「自由が丘クリスタルボウル倶楽部」なのです。
ここでは誰でも好きなように、堂々と好みの奏者を選ぶことができます。
「自由が丘朝活」も、この新しいコミュニティ作りの一環です。
メンバーもクリスタルボウル奏者に限定しているわけではなく、共感できたらどなたでも!
この写真の面々はみな、何らかの形で関わっています。
10時〜11時30分 自由が丘「スタジオカムシア」にて ご参加費・4000円
6/8クリスタルボウル・ヨーガ