誰かに好かれたければ誰かに嫌われること〜好き嫌いは陰陽であり2つで1つ

思うに「好き」と「嫌い」は差をつけることで生じるもの

つまり誰かを嫌わずして誰かを好きになることもなく

誰かに嫌われずして誰かに好かれることもない

 

 

1・「好き」「ポジティヴ」とはどういうことかを考える

1-1・「嫌い」がなければ「好き」はない

世界に「甲」しかなければ、「甲」が好きか嫌いかという感情はないでしょう。

しかし「乙」もあって「乙」と比べることで、どちらがより好きでどちらかより嫌いかという「差」がつくのです。

 

比較するのは人間の性(さが)です。

なぜならわたしたちは、自己保存のためにより自分に適したものを常に求めているから。

同じものが2つあれば、どちらがより適しているか判定します。

そこに人が2人以上いれば、誰がいちばん自分にとって好ましいか見極めようとします。

 

ところが、おそらくもうお気付きのように、

片方が「好き」ということは、もう片方は「好きではない」ということです。

つまり、「嫌い」。

 

「嫌い」と「好きではない」は違うというご意見もあるでしょうが、わたしは同じと考えています。

ただそれは程度の差で表現を変えているだけで、わたしたちは普段は無難な表現を選び、「大嫌い」とまではいかないものを「好きではない」と言っているだけなのです。

別の言い方をすれば、片方が「好きではない」程度なら、好きな方も「ちょっと好き」くらいでしょう。

 

「太極」が分かれて「陰」と「陽」が生ずるように、ニュートラルな状態から「嫌い」と「好き」は同時に生まれるのです。

「好き」がなければ「嫌い」がないように、「嫌い」がなければ「好き」もないのです。

 

※wikipedia「陰陽」

https://ja.wikipedia.org/wiki/陰陽

(この項の「陰陽性質表」には異説あり)

 

 

1-2・「好き」は突き詰めればエゴ、自己保存欲求である

「好き」とは自分に適したものであり、言い換えればそれは、「自分」という個人を保つための自己保存欲求です。

平たく言えば、利己主義にも通ずる「エゴ」です。

 

さて、何層にもなっている人の心で最もエゴイスティックなところは、何といってもその表層、ごく浅い部分です。

つまり「表面意識」「顕在意識」であり、普段わたしたちが「自分」と思っているところ。

フロイトの「氷山の図」で言えば、海面から出た部分です。

 

※wikipedia「精神分析学」(フロイトの「氷山の図」があります)

https://ja.wikipedia.org/wiki/精神分析学

 

「好き」をあまりにも追求すると、欲しい物したい事が増えて時に強欲になるのは、この自己保存欲求が異様に高まって、「自分さえ良ければいい」という状態になるからです。

 

 

1-3・「ポジティヴ志向」の落とし穴〜陽極まるのもまた危険

「好き」=「ポジティヴ」=「陽」を追求するのも、個体の生命を保つためには必要なことです。

エゴは良くないことだ、などと決めつけるつもりはありません。

 

ところで「陰陽」というと、よく「陰=悪い」「陽=良い」と誤解されますが、そんなことはありません。

だいたいそんな発想をしてしまうと、「女=陰=悪い」「男=陽=良い」になってしまいます。

そう考えられていたこともありますが、現代それはあまりにも時代遅れではないでしょうか。

陰が避けるべき悪ではないように、陽もまた、諸手を挙げて歓迎するようなものでもないのです。

 

好きなものごとを適度に求めるのは結構なことですし、嫌いなものごとに耐え続ける必要など全くないのですが、かと言って「好き」ばかりを追求しすぎるのも考えものなのです。

陰陽思想でも、陽に傾きすぎた「極陽」はむしろ忌み嫌われます。

それもまた、バランスを大きく崩すからです。

 

だから行き過ぎたポジティヴ志向は、むしろ危ないのです。

陽の氣というものは上昇するものですから、それが過ぎると「氣が上がりすぎて地に足がつかない」状態になったりします。

するとある人は現実を見ず、「頭の中がお花畑」になることもあります。

また陽の氣は外に発散するものであるところから、時に攻撃的になることもあり、欲が暴走して自らの利益のためには他者を省みなくなる人もいます。

 

つまりこれらは「陽極まって陰に転じる」となった例であり、

言い換えれば、ポジティヴの行き過ぎを止めるために一転して、ネガティヴな状態や状況を引き起こしたということです。

 

 

2・光あれば陰あり〜身体も心も陰陽バランスが大切である

陰陽は二つで一つ(「太極」)

ポジティヴとネガティヴは表裏

光あれば陰あり

 

大切なのは、「逆」も意識し認めることです。

どちら片方なんて、都合が良すぎるのです。

 

だから、自分の「好き」を大切にしたいのだったら、自分の「嫌い」も認め尊重することです。

別にそれを声高に主張して、他人と好んで摩擦を起こす必要はありません。

でも自分の内では、その「嫌い」を認めておくこと。

 

嫌いなものがあるから、好きなものがある。

嫌いな人がいるから、好きな人がいる。

嫌いな自分がいるから、好きな自分もいる。

 

この「嫌い」と「好き」の差をどのくらい付けるか、それは人それぞれのようです。

感情の起伏が激しい人や、好みのはっきりしている芸術家気質の人は多く付けているかもしれませんし、

「悟り」に近づいたような賢者なら、差が少なく好き嫌いの振れ幅も小さいかもしれません。

(「悟り」の語源は「差取り」だという説もあります。)

 

そしてわたしは、悟りに近づいた人が起伏の激しい人より偉いとも思いません。

きちんと自分の中でバランスが取れるのなら、どちらでも良いと思っています。

 

ちなみにわたしは、時に悟ったようなことを書いたり言ったりしているのかもしれませんが、

自分では好き嫌いのひじょうにはっきりした芸術家気質だと思っています。

 

 

3・ところで潜在意識は「好き」を求めているのだろうか?

さて、心の浅い部分、水面上の表面意識は、自己の確立のために「好き」を求めているものですが、

水面下の潜在意識はどうなのでしょうか?

 

これはわたしの考えなのですが、人間の心や意識といったものは深いところになればなるほど、自己と他者の区別が曖昧になってくるようです。

最後は「集団無意識」になり、更にその奥は「スピリチュアル」的な言い方をすれば「宇宙意識」、

つまり万物の根源である、「太極」の意識と一体化しているのだと思います。

 

※wikipedia「太極」

https://ja.wikipedia.org/wiki/太極

 

赤ちゃんが自己と他者の区別がつかないと言われているのは、まだ表面意識が芽生えていないからこそ、この深い部分で生きているからでしょう。

が、通常の大人の生活では、ここまでは考えない方が良いかもしれません。

 

 

しかしそこまで奥には行かずとも、自覚できない水面下の潜在意識になると、案外自己保存欲求は薄い感じがします。

少なくとも表面的・現世利益的なポジティヴは求めていません。

どうして願った通りに幸せになれないのだろうかというご相談はとても多いのですが、何のことはない、

潜在意識では「幸せ」など願っていないからです。

 

潜在意識は、「好き」を追求したいなどと思っていません。

むしろ表面意識が「好き」や「ポジティヴ」に固執していればいるほど、バランスを取るためでしょうか、

嫌なことや「ネガティヴ」を願い引き寄せているのです。

 

(潜在意識も含めて考えれば、敢えて「引き寄せ」するなど言わずとも、

誰でも当たり前に望むこと全てを完璧に、引き寄せているのです。)

 

 

4・「好き」と「嫌い」は表裏一体

4-1・そろそろ自分の「嫌い」を認め、「自分が嫌い」な相手の存在も認めよう

表面意識が「好き」「ポジティヴ」を追求すればするほど、潜在意識的には「嫌い」「ネガティヴ」を引き寄せるのであれば、することは一つです。

 

表面意識でも自分の「嫌い」を認め尊重すること

 

一つと書きましたが、その裏に実はもう一つあります。

 

自分を嫌う存在がいることを認め、嫌われることを自分に許す

 

自分は何かを嫌ってもいい(=好きでもいい)けれど、他者の誰にも嫌われたくないというのは、全く虫の良い話です。

いや、虫が良いとか悪いとか言うより、世の理と言ってもよいでしょう。

自分が他者にしてよいことと、他者が自分にしてよいことは同じ。

 

自分に他者を嫌う(=好く)権利があるならば

他者にも自分を嫌う(=好く)権利がある

 

片方が認められれば自然に、もう片方も認めざるを得なくなるでしょう。

 

 

4-2・「嫌われる勇気」は「好かれる勇気」

アドラー心理学を元にして書かれた『嫌われる勇気』という本が人気になり、テレビドラマ化もされています。

不勉強なもので、わたしはこの本を読んでいないのですが、タイトルを見たとき、

「嫌われる勇気は、好かれる勇気と同じ」と思いました。

 

嫌われるも好かれるも、結局は、

「他人から評価される」「誰かと比べられ差を付けられる」ことに変わりはありません。

そこから目を背けて「好かれる」ことばかりを求めるのは、雲を掴もうとするようなものではないでしょうか。

 

そして、誰かに嫌われるようなあなただからこそ、好きだという誰かがいるのです。

 

「嫌われることを怖れないで

そのぶん、あなたは好かれるから」

 

 

5・まとめ〜好かれるも嫌われるも本質的には同じ、だがその程度には気をつけよう

好かれるも嫌われるも本質的には同じ、「他人から比べられ評価されることを受け入れる」ことです。

そして自分が誰かを好きになるも嫌いになるも実は同じ、「比較し評価することを自分に許可する」ことです。

まあ、しなくても済むなら、それはそれで良いのですが‥

 

ただし、好く好かれるにしろ、嫌う嫌われるにしろ、その「程度」にはちょっと気を留めた方が良いかもしれません。

バランスを大きく崩さないために。

 

どちらに傾きすぎても、バランスは崩れます。

が、何となく思うのですが、

「此の世」は完璧な「中庸」よりはちょっと陽に、ポジティヴに傾いたところでバランスを取るのが適しているのではないでしょうか。

なぜなら「此の世」は、「陽」に向かって成長していくものだからです。

(これについての説明は、またいずれ‥)

 

だからやっぱり、特にネガティヴな方向に、あまりに傾きすぎるのは考えものです。

しかし、ポジティヴばかりでも良くない。

 

 

割合は単なる目安ですが、陰:陽が4:6から2:8くらいまでの間がバランスが取りやすい感じがします。

それは単純に好きな人嫌いな人の数の話ではなく、その程度も考えてのこと。

つまり「なんとなくだけど嫌い」が100人で「とっても大好き」が1人でも、バランスは取れているのかもしれないということです。

 

 

大いに嫌い、大いに好く。

大いに嫌われ、大いに好かれる。

それもまた、いかにも「人間」な生き方ではないでしょうか。

 

 

※関連記事

「好き」とはどういうことか?〜自覚できるものとできないものがあるらしい

https://otoka.jp/「好き」とはどういうことか?〜浅いものと深い/

 

 

 

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